アットゥㇱは、アイヌ文化に受け継がれてきた樹皮による平織の反物です。反物から仕立てた着物もアットゥㇱと呼ばれます。そうした技法と素材利用を継承した伝統的工芸品が「二風谷アットゥㇱ」です。 アットゥㇱの素材は、オヒョウやシナノキなどの内皮から作られた糸。沙流で培われてきたアットゥㇱ製作は、近代以降のアイヌ工芸における主要品目として重宝され、昭和44年の「アツシ織物生産組合」(二風谷で組織された任意団体)の設立へとつながっていきました。 すべての工程は、大自然と人の手の関わりの中にあります。豊かな森と、森に寄りそって暮らす人間の営みが育んできたアットゥㇱは、自然と人間との長い交わりそのものが織り込まれた工芸品だといえるでしょう。 アットゥㇱの特徴は、丈夫で水にも強く通気性にすぐれていること。そして長く付き合うほどになじんでくる、天然繊維ならではの風合いが魅力です。
アットゥㇱは、北海道の各地で作られ、その中でも道東や道北、胆振、そして二風谷が位置する日高の沙流川流域などが、江戸時代に産地として知られていました。沙流川流域が産地として文献史料で最初に見られるのは、18世紀はじめころになります。アットゥㇱは丈夫で水にも強いところから、ニシンの漁場や、本州と蝦夷地(北海道)を行き来した北前船の船乗りたちの仕事着としても愛用されました。この布は交易のための産物としても知られ、本州以南にも流通していたのです。歌舞伎にも、役者がアットゥㇱを着る演目があります(「天竺徳兵衛韓噺」)。 道内各地の制作地はその後さまざまな変遷をたどりましたが、二風谷では現代まで技術と伝統が地域の工芸振興の中で継承されてきました。江戸時代にはすでにアットゥㇱの反物が、すぐれた産品として重要視されていたことが文献からわかります。1878(明治11)年にここを旅した英国の旅行家イザベラ・バードは、著書の『日本奥地紀行』でこの地のアットゥㇱのことにふれており、北海道の物産の産出状況をまとめた『諸物産表 明治十三年 明治十四年』にも、沙流川流域でさかんにアットゥㇱが織られていたことが記録されています。また1881(明治14)年に発表されたオーストリアの外交官・考古学者ハインリッヒ・フォン・シーボルトの『蝦夷島におけるアイヌの民族学的研究』にも、現在とほぼ同じ織機のペラ(へら)が記録されています。さらに、米国シカゴ大学の人類学者フレデリック・スターが収集したアイヌ工芸品に沙流川流域のアットゥㇱが含まれていたことが、1904(明治37)年の記録から見て取れます。 織りは女の仕事ですが、山に入って良質の素材を調達してくる男たちとの協働も欠かせません。かつては、樹皮に限らず衣食住の生活資源を代々採取する場(イウォㇿ)が集落ごとにあり、人々はそうした自然空間を大切に守り伝えてきたのです。 二風谷では、今も百年前と同じ様式の道具を使い、二風谷民芸組合が中心となって、アットゥㇱの技術の継承と制作販売が行われています。